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東光禅寺の坐禅会20230110

1月10日は、臨済宗の祖・臨済義玄禅師がご遷化された日(臨済忌)ということで、禅師のお言葉の「無位の真人」の解説がありました。 地位や肩書き、学歴にとらわれたり見栄を張る心、そういったものを捨て去ったところに、自然のままの本当に強い自分「真人」がいるという言葉です。 仏や祖師を知りたいと思うならば、決して外に求めてはならない。 今この目の前の説法を一体何ものが聴いているのか。 耳が聴いているのか、頭脳が聴いているのか。 耳で聴いているのであって、耳が聴くのではない。 耳を通して何ものかが聴いているのだ。 頭脳を使って何ものかが認識し判断しているのだ。 その何ものかを仏であると臨済禅師は喝破された。 しかも、それは何の位階にも属さないし、枠にもはめられることもない、それが真人だと説かれた。 春見文勝老師の言葉 「わたしのなかにもう一人すてきなわたしがおる」 https://www.youtube.com/watch?v=Jn09UdSb3aA&list=RDJn09UdSb3aA&index=1 .................................................................. 「泥かぶらの話」 昔、ある村に顔の醜い少女がいました。親に捨てられた孤児で、家もなく、森の落葉の中にもぐり、橋の下に寝ていました。色は真黒、髪はボウボウ。着物はボロボロ、身体は泥だらけ。少女は、その醜さゆえに、「泥かぶら」と呼ばれていました。 子どもからは石を投げられ、唾を吐きかけられ、泥かぶらの心はますます荒み、その顔はますます醜くなっていくばかりです。 「あたしはこれからどうしたらいいの…」夕日を見ながら、悲しくなり考え込むのです。 ある日のことです。泥かぶらがいつものように「美しくなりたい!」と泣いているところへ旅の老法師が通りかかりました。 「これこれ、泥かぶらよ。そんなにきれいになりたいと泣くのなら、その方法を教えてしんぜよう。3つある。まず1つは、自分の醜さを恥じないこと。2つ目は、いつもにっこりと笑うこと。そして3つ目は、人の身になって思うことじゃ」 泥かぶらは、激しく心を動かされました。というのも、それらは、今までの自分とまったく正反対の生き方だったからです。 「この3つを守れば村一番の美人になれる」 法師の言葉